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web Cafe Adrenaline vol . 43

2006 11-18 update since 2000


おかげさまで10周年
1996〜
回想〜2006




おかげさまで、カフェ・アドレナリン.は、
2006年8月31日 (木)をもちまして、中津川・移転オープン/3周年、
10月20日 (金)で、創業10周年を迎えることになりました。

暑い日も寒い日も、雨の日も、ドカ雪の日も、

名古屋時代はたった2台という少ない駐車場にもかかわらず、
そして今は、たった8時間という短い営業時間にもかかわらず、

本当に多くのお客さんに足繁く通っていただき、

月並みですが、”感謝”、という言葉以外、見つかりません。

ありがとうございます。

この際、これからも頑張ります、みたいな曖昧なことを言っても仕方がないので、

正直、自分でもこの先、どういう方向性に進めて行ったらいいのか、分からない部分も多いのですが、

少なくとも、自分が面白いと思える店作りに、のめり込んでいきたいと考えております。












今回は、この10年を僕の視点から、じっくり回想してみます。

実はこの号を書くにあたり、3ヶ月くらいかかりました。
書いては消し、書いては消しのくり返しでした。
というのも、できるだけ細かく、正確に、具体的に、というスタンスで書くのですが、
(※毎号そうですが、今回は特に、)
あとから読み返してみると、事実には違いないのですが、
現在、僕は現役のマスターという立場を考えると、
現時点で取り上げるには、不都合があり、削除した方が良い、
と思われる部分が数多くありました。

残念ですが、これはまたの機会(20周年の時)にとっておきます。

と同時に、ある程度、読者のことを考えると、
あまりに詳細な表現は、かえって読むテンポを悪くするかも知れない、
と思い、ざっくり削除した箇所も多数あります。

よって、今回は、執筆した文章全体の1/5くらいを構成し直し、アップしました。
つまり4/5は削除したことになります。

ちょっと、勿体なかったなと思いますが、
それでも、かなり読み応えがあると思います。

さ、お手元に、コーヒーでもご用意いただき、アドレナリン探索へ出掛けましょう!







目次


第一章
1996年とは、どんな時代だったか?
独立への道のり
自分のことを信じるしかなかった準備期間

第二章
濃厚なスタート
転機
脱・名古屋計画
候補地・岐阜県中津川市

第三章
平行線/衝突/和解
工事着工、さらば名古屋

第四章
中津川アドレナリン・オープン
試される適応能力
そして10周年〜あとがき





第一章


1996年とは、どんな時代だったか?

たしか1996年というと、まだインターネットも、パソコンも大して普及してなかったし、
携帯電話の番号も10ケタだったし、電話以外の機能は付いてなかったし、それが当たり前だったし、
モーニング娘はまだ存在すらしてなかったし、小室哲哉プロデュースものが大ブレイクして、
プリクラに女子高生が群がり、
自動車メーカーは、BMWがZ3ロードスター、メルセデスはSLK、ポルシェがボクスター、MGがMGFをリリースした。

この前年(’95年)、東京/銀座にスターバックスが日本1号店をオープンしている。
まあ、これが昨今のカフェブームのきっかけになったと思し、
言い換えれば、戦後日本における「カフェ元年」だったのかも知れない。
ニューヨークじゃなくて、シアトル発、というところも何となく新鮮な感じがしたし、
営業スタイルそのものはイタリア式なので、こーゆーのに日本人はめっぽう弱いし、
なんと言っても、あのロゴ、そして色使い、店舗デザイン、といったビジュアル面において作戦勝ちだったと思う。
僕個人としては、あまり好んで行く店ではないけど、カフェビジネスとして見たら正直得るものは多い。
そして周知のように、2001年に、イチローがシアトル・マリナーズに入団し、ちょっとしたシアトルブームとなった。

以降、外資系を含む大手企業も、
”スタバに習え!追いつき追い越せ!”、といった感じでカフェ事業に参入し、
微妙な立ち位置だった従来のファーストフード系は、出来る範囲でこっそり、カフェ風なテイストを取り入れていくことになる。

具体的に言えば、
外観に派手な(原色のような)色使いをひかえ、あえて目立たないナチュラルカラーにしたり、
人工的なイメージの強かったハンバーガーなどのメニューに、有機野菜を取り入れたり、
寒暖の差が激しい日本にもかかわらず、わざわざ店の外にデッキの席を設け、
わざわざそのための日除けテントを掛けたり、冬はガスバーナーみたいなストーブを用意したり、
なーんでそこまでして外でお茶をしたいのかわからないけど、なんとなくそれがオシャレみたいな風潮があって、
カフェオレ×→カフェラテ○、・・・みたいな方向性で、何とかトレンド圏内に留まろうと各社必死であった。

いっぽう、僕のように、「資本金は?」と聞かれ、「カラダが資本です!」、と
わけのわからない答えをする、個人事業者が増え始めたのもこの頃。

とにかく当時は、連日の報道で、”景気は今がドン底”、と言われており、
有識者らの発言も、「バブル崩壊後の影響はここらへんがピークでしょう・・・」、などと言っていた。
実際、金利は低く、空きのテナントも多かった。
だったらいつまでも会社にしがみついてないで、ここらで一発、勝負したるか!、
みたいな空気があちこちに漂っていた。

まだ、
カルロス・ゴーンも日産の社長じゃなかったし、リストラなんて聞いたことなかったし、
山一証券も破綻してなかったし、銀行がつぶれるなんて思わなかったし、
つぶれそうになったら公的資金/国民の税金が使われるなんて思わなかったし、
その額が一行に対し2兆円というわけのわからない金額だなんて思わなかったし、
なのにその銀行のトップたちは年収数千万円もらって悠々とレクサス乗ってたり、
たいして必要とは思えないシンクタンクを相変わらず抱えていたり、
またそこで働く人たちがベラボウな給料をもらっていたり、
そんな中、庶民の医療費は3割負担になったり・・・・、

と、まさか、これから先、さらに、ダメな方向へ行くとは思ってもみなかった。
まー、10年前は、呑気だったなと思う。
(※あ、今のところゴーン社長の采配は、ダメとは呼べないが・・・)















独立への道のり

’94年、僕は結婚をし、(’93年)ユーノスロードスターを買い、(’95年)ベック550スパイダーを買い、
周囲からは、完全にバカ扱いされながら、
今度は、大真面目に、「クルマ好きも通いたくなるような飲食店」、の立ち上げを考えていた。
※この頃の様子は、vol.6/「運命の5年前」の後半に記載。

まだまだ、”長いモノには巻かれろ”、といわれていた時代で、
漠然と、いい点数取って、いい学校を卒業し、一流企業、国家公務員などに就職すれば、終身雇用で、
そこそこにやってれば将来は安泰です、間違いありません、出るクイは打たれますよ、という時代だった。

だから、自分の意思で、そこから飛び出すのはけっこう勇気が必要だった。
ついでに言えば、資金も無い、大した実績も無かったので、正直心細かった。

ただはっきりしていたのは、
デザイナー、営業マン、コック、と3つの職業を転々とする中で、
”自分はサラリーマンには適していない”、ということを自覚してしまった。
そして、今後一切やりたくない、とまで考え、そのためには何をどうしたらいいか、を考えていた。

しかし、こう発言する僕に対し、決まって上司や年長者たちは、
「そんな若いもんに世の中の何がわかる!、世の中そんな甘っちょろいもんじゃない!、
もっといろいろ経験を積んでから見極めないと人生失敗するぞ!」、と一喝された。

勤めた会社の批判をするつもりはないのだが、
「たえず自分ならこうする」、「そういう方向性だとこの先困ると思う」、など、
ろくに仕事もできないくせに、会社の経営の根幹に関わる部分、そんなとこにはやたら敏感だったし、
実際、その手の発言を、上司、社長にもブチかましていた。

自分でも、生意気だな、と思うのだが、ある意味、これは仕方ないと思う部分もあった。
それは、僕が子供の頃の体験が大きく作用していると思う。

40歳、50歳になってから、脳もカラダも衰えてから、家族や、住宅ローンを背負って、
「俺のこれまで歩んできた道は間違いだった!」、と気付いても遅いし、
そっからやり直して上手くいくほど、人生甘っちょろいもんじゃない、と、僕は子供の頃から思っていた。

なぜならば、僕の父親がまさにそれで、やることなすこと後手後手にまわり、
何度も事業に失敗し、借金にまみれ、それに振り回される家族の心労、
ひょっとして世間から取り残されるんじゃないかという不安感、恐怖感、そのあとにやってくる無力感、脱力感、
を、目の前で見ていたからだ。

幸か不幸か、僕は中学生のころに、
男は、どれだけ転職してもいいし、方向転換してもいいけど、30歳までに、自分が何向きの人間かを知り、
30歳以降は、自分の決めた道をひたすら進むべきで、畑違いの転職はしなくて済むようにしよう・・・、
と、ぼんやり思うようになっていた。

じっさい、まともに働けるのは60歳まで。
そっから逆算すると、10代20代がいかに大切な時期か、浮き彫りになってくると思う。

ちなみに、存命中である父の名誉のために付け加えさせて頂くが、
その後、なんとか巻き返し、現在は平穏な生活を送っており、
まあ、典型的なB型の性格なのか、当時の悪夢のような出来事をほとんど覚えておらず、
相変わらず競馬に狂っており、(この40年間、毎週のように場外に通っており、投じた金額は測り知れない)、
たまに会って話すと、会話のふしぶしに多少なりとも「後悔の念」が感じられ、がゆえに、
僕は、男として生きる、ということの難しさを知る事ができる、貴重な存在である。






独立へのきっかけは、最後のサラリーマン時代のコック在職中に、
「来期、水野は店長に昇格」、という噂が流れ、「マズイ、なんとかしなきゃ」、と思った瞬間だった。

というのも、僕が入社してから、その店は絶好調で、年々店舗展開を繰り広げ、
やたらと効率化を急ぎ、なんでもかんでも合理化を図り、なんだが大事な物を見落とし、見過ごし、という印象を受けた。
開業当初は、社長自ら、フライパンを振り、味を決め、接客をし、全てをコントロールしていたが、
徐々に現場から離れ、店舗を増やしても、なかなか現場には入ろうとせず、
どう考えても不慣れなスタッフに任せきりで、カヤの外からゲキを飛ばすも、
共に汗を流すということは皆無に等しかったので、出した方針も、指示も、命令も、現場サイドからすると、
なんとも的外れなモノが多くなっていた。

それでも、たまに現場に入り、コック服に着替え、僕らに混じって調理する事があったが、
やはり、技術職であるコックの仕事は、いくら社長でもブランクがあるとダメだ。
半年とか、1年とかのブランクがある人は、正直、皿洗いからリハビリしてもらわないと困る。
それがいきなり重要なポジションをやろうとするから混乱を招く。
まず、どこに何があるのかわからない、それを他のスタッフに聞く、いちいち聞く、
他のスタッフとの連係がわからない、苛立つ、すると他のスタッフが緊張し、萎縮する、
したがって、いい営業ができるわけがない。

おそらく、みんなの手本になるべく、スタッフ全体の士気を高めようと、現場に入ったのだろうが、
じっさい現場はそんな甘いもんではなく、ぶっちゃけ、僕らの足を引っ張る格好となった。

思いっきりみんなでシラけた。悲しいかな、これが現実だった。

僕は、「店はもっと、ゆっくり、丁寧に熟成させるべき」、
という考えをもって、何度となく社長に噛み付いたが、ことごとく全否定され、険悪なムードが漂っていた。

※これについては、vol.30に詳しく記載。

だからここで僕があっさり店長になったら、僕自身ダメになりそうだった。
いち従業員が、ここまで考えてしまったら、もう辞めるしかなかった。
じゃあ、辞めてどうする?、となると、前々から独立を考えていた。

よって、「僕は独立します」と先手を打ち、あえて、時期尚早かも知れないタイミングで宣言することにより、
自分の逃げ道を封鎖し、もう後戻りは出来ない、という環境に身を置くことを選んだ。

その当時の、僕の調理に関する技術レベル、
また、部下を指導したり、店を運営したりするマネージメント能力、なんて大したことなかったと思う。

だから僕よりも、年上で、経験豊富で、それなりに貯金もあり、当然、独立願望もあったであろう、
先輩コックたちからみれば、「今、あたえられた仕事をこなすのに四苦八苦してる奴が、なにが独立開業だ」、
と思っていたと思う。

ただ、前述した理由により、”世の中を渡っていく”、という事については、
周囲の人よりも、考え、悩む、時間が多かったし、強烈に刷り込まれた。
だから自分の人生を、いろいろシュミレーションをし、またそれが楽しかったし、それが何よりの武器だった。

誰かの指示に従い、給料を貰い、休みを貰い、言いたい事も我慢して、
仕事帰りに一杯呑んでウサを晴らして、愚痴って、というのが嫌で、
なんとか自分ひとりで完結する仕事はないか?、と考えた末の、カフェ開業でもあった。
レストランだと、過去の経験から、自分一人で厨房を担うのは無理、と判断したからだ。
イメージは、僕がひとりで料理を作り、カミさんがドリンクとデザートと接客を担当し、
人件費0円でもやっていけるような店だった。

今思うと、若いくせに、パーっと儲けて成り上がってやろう!、みたいなギラギラした野望はなくて、
それどころか、あるていど歳をとってからでも続けていける、妙に手堅い、仕事を、人生をイメージしていた。

でも、じっさい、独立後、どーなるかなんて分からなかったし、
本当のことを言えば、イチかバチか、当って砕けろだったし、
もし、当って砕けた場合、長距離トラックの運転手でも何でもやって、借金返済に努めるしかない、と思っていた。

ある意味、帰りの燃料を積まずに敵地へ向かうゼロ戦のような気分で、
最悪、任務を遂行できなかった場合、敵の捕虜となって、強制労働を強いられても、
生きる希望は捨てないでいよう、と思っていた。

そんなとき、いろんな人から、「勝算は?」、と聞かれたが、
即答で、「無ければやりませんよ」、と言い切った。

「根拠は?」、との鋭い質問には、さすがに明確な答えは出せなかったが、あまり気にしなかった。

だって、仮にその質問に明確に答えたところで、それはあくまでも憶測でしかないし、
けど、じっさい商売なんて始めてみなけりゃわからんだろ!、こっちはもう腹くくってんだから!と思った。
まあ、今思い起こすと、ちょっと無謀だなーと自分でも思うけど、これも若さゆえのパワーだったと思う。

当時、カミさんも、「何とかなるんじゃないの?」、と楽観しており、僕の独立に関しては、全く否定しなかった。
ま、これも、”若かったから”、だと大いに思う・・・。





















自分のことを信じるしかなかった準備期間

’96年の春、僕は退社し、無職になり、しばらくプラプラする時間をもらい、
物件探しや、参考になりそうな店を見て回ったりしていた。

でも1ヶ月もすると、時間を持て余すようになり、コンビ二でアルバイトニュースを買い、
短期で、尚且つ、出店準備の負担にならないような都合のいいバイトを探していたら、
ちょうどシーズンだったらしく、某メーカーのアイスクリームのルート配達、というのがあり、
さっそく4トントラックに乗り、朝8:00〜夕方5:00ごろまで走り回り、月18万円くらい稼いだ。

天気がよく、気温が上昇するとアイスクリームはバカ売れで、注文が殺到し、
各店の商品補充に追われたが、雨だと結構ひまだったので、そんな時は、出店準備に時間をあてることが出来た。

そこの配送会社での、僕のポジションはあくまで”臨時採用の運転手”という最底辺のポジションだったが、
同じような年齢で働いている”正社員”がほとんどだった。でも、やってる仕事はまったく同じだった。
一日の大半をトラックの運転に費やし、朝めしも、昼めしも、運転しながら食べるという環境だった。
ルート配達なので、基本的には毎日きまったコースをなぞるだけなので、すぐに慣れ、
頭の中では、まったく他の事を考えていても、体が勝手にトラックを操縦している状態になった。
他の連中に聞くと、「それがトラック運転手というものだ、お前もやっとわかったか」、と言われた。
こんな職業というか、こんな世界もあるんや、と思った。

物件探しは、6月ごろ、クルマで流していて、なんとなくココ、と思った場所に決めた。
自宅からクルマで約2分という近所だった。
4階建てマンションの1階に3つのテナントが入っており、
向かって右から、■健康食品の事務所、■居酒屋、■入居を決めた空きテナント(旧・接骨院)だった。

18坪/駐車場1台/家賃11万円、今思うと、ゾッとするくらいの悪条件だが、当時はこれでいいと思っていた。

そして、契約を済ました直後、この物件の管理会社の小高氏から電話があり、
「水野さん、反対側の健康食品の事務所が空くことになったけど、どお?
家賃は1万円高くなるけど、駐車場2台だし、けっこう広いから軽自動車なら3台くらいOKだし、
裏口に小さいけど倉庫も付いてるよ」
、との一報を受け、
「じゃあそっちでお願いします」、と即答し、速攻ではじめの物件は解約し、あらたに契約し直した。

この判断が、運命の分かれ道だったと思う。おそらく、はじめの物件では相当ヤバかったと思う。(笑)
よくぞ土壇場で変更できたと思う。本当に神様のおかげだと思えた。

健康食品の事務所が抜けたあとの状態は、パーテーションが3つくらい設置してあるだけの簡素なもので、
壁材、床材など一切無く、奇跡的に、コンクリートむきだしのスケルトンのままだった。
天井高が4メートル弱、ガラーンとした18坪を見て、広い!と思った。

施工に関しては、管理会社の小高氏が、引き続き面倒を見てくれることになった。
早速、自宅に戻って、内装に関するラフなスケッチを描いて、事務所まで持っていくと、
小高氏はじめ、設計士の栗田氏も、「は?」、と目が点になり、
けど、その直後、「面白そうじゃないですか!」、と笑顔に変わった。

僕は、「やった!」と思った。これまで張り詰めていた不安な気持ちが、すーっと晴れていく感じがした。

ここまで、僕自身の力不足もあったと思うが、
それ以上に、いろんな人に話した”アドレナリン・プラン”は酷評だったので、本当に嬉しかった。

ラフスケッチに描かれた、”クルマと2階”、を見ただけで、
面白そうだと感じてくれる人に出会えた事はラッキーだった。

どんなに腕が良くても、過去の実績があっても、
依頼者が提示したイメージや、アイデアの面白さに同調してくれないと、
必ずと言っていいほど、仕上がりに不満を覚えるからだ。
それは、とことん話し合って理解できるものではなく、ぱっとみて、あ、なるほど、という感覚のものである。
だからラッキーだった。

ここからだったと思う。
僕の人生が、大きく変わりはじめたな、と実感したのは。

そして、工事着工直後、僕の店の正面にあった、元喫茶店の建物も何やらリフォームのような工事が始まり、
何が出来るんだろう?、と思っていたら、いきなり茶メタのランボルギーニ・ミウラが登場し、
ポルシェ911(’74)カレラが、またSCが登場し、ななな?何事?と思い、オーナーらしき人物に挨拶に行くと、
外車をメインとしたクルマ屋であることが判明した。
なんだかよくわからないけど、うおーし、俺もやってやるぞ!、とやたら気分が盛り上がってきたのを覚えている。

工事代金は550万円、その他に200万円くらい必要となり、
足りない資金は、あちこちに頭を下げ、なんとかかき集め、夢の工事着工となった。

※このあたりの詳細は、vol.9に記載。






第一章へもどる 第二章へつづく




第二章


濃厚なスタート

幸いにも、旧友や、知り合い、ベック550スパイダーを通じて知り合ったメンバーらのおかげで、
1996年10月20日、順調なスタートを切る事ができた。

じっさいに1つの店のオーナーになってみた感想は、
自分で免許取って、自分の金でクルマ買って、初めて路上に出た瞬間、とよく似ていた。・・・というもの。
どんな所でも、好きなように行けるけど、リスクはすべて自分持ち、という点。
まさに、人生の運転席に座った感じがした。

その後、新店舗によくありがちな、
営業時間の変更、メニューの見直し、売上げの好不調の激しさ、
疲労困憊なのに、いざ店のことを考え出すと夜なかなか寝付けない、熟睡できない、
それに伴うストレス、それが引き起こす夫婦喧嘩など(笑)、とにかくキツイ日々が続いた。

オープン当時のメニューは、常時パスタは7種類くらいやっていたし、
サラダは4種類、サンドウィッチ、オムレツ、豚の角煮、なんかもやっていて、
生ビール、ワインは10種類くらい、日本酒、ウィスキー、カクテルもがんがん売っていた。

店のつくりや、雰囲気、コンセプトは今と変わらないのに、
実際の売上げ内容は、まるで居酒屋のようなノリで、カフェらしからぬ客単価3千円くらいは楽勝、なんて日もざらにあった。

18坪しかない店内で、派手なクルマを置き、そのため無理矢理2階フロアを作り、客席にして、
なんとも言えぬ狭さというか、客席ごとの独立感をもたせ、ほのかに木の香りがして、薄暗い照明で、
ちょっと大き目のボリュームでジャズがかかって、常連客がカウンター席を占拠し、あーだこーだ言い、

そして、
村上くんが、安いダンツキ(’60年代のアルファロメオ)を買って登場し、
お客が一斉に駐車場へ出て、やんやの盛り上がりで、「あー燃料タンクが錆びてこれじゃヤバイ」だの、
「フロントのロアアームを強くヒットした跡があるから念のためアライメントやり直したほうがいい」だの、
「たしか○○君がスペアのアーム持っていたはずだから聞いてみよっか」だの、
「ドア下やばい」だの、「フロントガラスの刻印が他と違うから怪しい」だの、

ハタから見ていると、これはちょっとしたイジメのようにも映る光景だが、
本人たちはそんなつもりはなく、あくまで恒例行事の一環であり、社交辞令であり、最大の賛辞だった。

すると今度は、偶然通りかかった、ルノー5ターボIIにのる山本氏が、
「みんな、シーケンシャルミッションに載せ替えました!」と、フランスから空輸した1機200万円もするミッションを披露し、
シフトチェンジのたびに尋常ではない金属同士がぶつかるガキン!ガキン!という音を連発し、
それでもさー、やっぱ左足は遊んでいるんだからシーケンシャルってスゴイよな!ってことになり、
で、ミッション搭載の際、今後のメンテナンスのことを考え、
自らの手で、リアバンパーの中央部分を電動ノコギリで切断し、脱着可能なゲートを作って・・と、

クルマ好きじゃない人からすると、ホント、馬鹿みたいなトークに一同、深い感銘を受けていると、

今度は、駐車場に入りきれない、ポルシェ、ロータス、コルベットたちは路上駐車を余儀なくされ、
ここで僕がやっと、「さ、そろそろ皆、中へ戻りましょう」、とマスターらしいことを言い、
するといつの間にか、店内のすみっこのテーブルで高原氏が(クルマに関する書籍等の販売で有名な高原書店/社長)、
古いカーグラを読みながら、いつものようにアイスアールグレイとケーキをお召し上がりで、

だいたい夜11時をまわると、近くの美容院で働く女の子たちが集まりだし、
こんな時間にもかかわらず、パスタとケーキをぺろっと平らげ、それでもべつに太るご様子もなく、
お喋りに夢中になりつつも、しっかりアフタードリンクまでオーダーいただき、
はっと気付くと深夜2時、じゃあねバイバイ・・・

という店、そんな店は他には無かった。

役者が役者を呼び、どんでもなく楽しいドラマが毎晩のように繰り広げられ、
それ見たさ、触れたさにギャラリーが増え、クルマ雑誌が取り上げ、TV番組もきて、
けどそんな男臭さの中に、なぜかいつも女性客が陣取り、べつにクルマのことはよく知らないし、興味もないし、
駐車場はいつも連中に占拠されてるけど、店内はいつも清潔に保たれているし、
深夜でもチャージ無し、アルコール無しでもOKなんて店は滅多にないし、コ○ダじゃヤだし、
樹理さん(カミさん)がいるから安心、と、その絶妙なバランスが受けたんだと思う。

”こういう店があったらいいな”、ということを、貯金残高が0円になる勢いで片っ端から実行した結果だった。
比較的、裕福な家庭に育ったカミさんとしては、時よりこれが我が家の全財産!?と呆気に取られていたが、
貧乏育ちの僕からしてみれば、お金は飾りじゃない、使ってこそお金じゃ!、と、洗脳した。

とはいえ、必ずしも、店に投資したからといって100%回収できるとは思っていなかった。
ただ毎日の営業の中で、刻々と店は成長し、お客さんから求められるモノも変化していくし、
僕もそれを理解しようとすると、どーしても捨てなくちゃいかんものと、
必ずと言っていいほど何かしら足りないモノが浮かび上がってくる。

それが手持ちのお金で賄えるのなら、迷わず買ってしまおう、というのが僕の考えである。
あきらかにお客さんのテンションが下がり、店に対して欲求不満を覚え、客足が遠のき・・・、
で、やっと気付いて、あわてて投入したところで、大抵の場合、時すでに遅しで、それこそムダ金である。

これは直感だと思う。
ぐだぐだ悩んでも、あまり良い結果が出るとは思えないので、その時はパスするに限る。
直感は、鍛えないと、そして使わないと、どんどん鈍っていくので、日頃からの訓練が大切である、と思っている。

じゃあ、買ったあと、投入したあと、「やっぱ必要なかった、失敗だった」、となったらどうするのか?
その時は、自分の店のこと/お客さんのことを把握しきれていなかったから失敗したのだ、と思うしかないし、
そのために今後、どーしたらいいかは自分の頭で考え、答えを出し、実行に移すしかない。
実際には、運も大きく作用すると思うけど、そんなことまで計算してたらキリがないので、
あくまでもダメ出しの対象は自分のみに限定しておく方が賢い。

何事も、トライ&エラーをくり返さないと成長しない。
この後にも触れるが、店を構成する備品のセレクト、これは非常に重要なファクターとなってくる。



おかげで、連日連夜ヘロへロに疲れたが、お客さんの支持率はかなり高かった。

正直、クセの強い、アクの強い、お客さんと時間を共有するのは、想像以上に大変で、
僕自身、お客さんとの精神的な距離を、どの程度保ったらよいのか分からない部分も多く悩んだが、
それでも、あきらかに得るものの方が大きかった。
僕はこの時期に、接客の難しさと、コツをしこたま勉強できた。そして、アドレナリンはすくすくと成長していった。

しかし、そんな支持率も徐々に低下し始める。
よく、”店はその店主と同世代の客が支える”、という言葉を聞くが、まさにそれだった。

結婚、出産、転勤、昇格・・・などで、20代〜30代のクルマ好きのお客さんの環境も変わり、
趣味クルマに、時間とお金を費やすのが困難、という人が増えた。
また、追い討ちをかけるようにして’99年頃から、景気はより一層悪化し、徐々に客足は遠のいた。
むろん、それだけが原因ではないだろうが、いい時もあれば、悪い時もあるので、なんとも仕方がない。

vol.17に、その当時の心境が綴ってある。

オープン当初から、いきなり自分のイメージする客層に恵まれ、
毎日、仕事なんだが、遊びなんだか、わかんなくなるくらい楽しい時を過ごした。
もちろん、このままずっと続くとは思っていなかったが、
正直、当時の僕は、この波が引いたらどうすべきか、どうなるのか、まで具体的に考えていなかった。

そして、これらの出来事をきっかけに、僕はいろいろ考えさせられた。
























転機

そして2つの考えに辿り付きました。

まず1つは、当たり前と言えば、当たり前なのだが、
あくまでもお客さんは、お客さんの都合で来てくれているだけの話で、それ以上期待してはいけない、というもの。

Aというお客さんと、Bというお客さんと、Cというお客さんが、毎日来てくれていました。
ある日、Aさんがぱったり来なくなりました。
なぜだろう?と思いましたが、BさんCさんがいるのでまだ安心でした。
しかし、やがてBも来なくなりました。
いよいよCさんしかいなくなり困ってしまい、なんとなく不安な日々を送りました。

なんてことは客商売ならよくあることで、決して避けて通れません。

しかし、ここでAさんに対してなぜ来なくなったか?を知ったところで、根本的には店のメリットにはなりません。
Bさんに対しても同様です。
所詮、飲食店は、待ちの商売なので、仕方がありません。
直接電話をして、お客さんを誘うのは、ノルマの厳しいキャバクラ嬢に任せておいた方がいいでしょう。

仮に、来なくなったお客さん全員に、事細かく理由を聞き出したとしても、
じゃあ、それらの理由に対して、すべて解決策を用意できるのか?と聞かれれば、答えはノーです。つーか不可能です。

この場合、店主として最も正しいと思われる行動は、
5年後なり、10年後なりに、ふと、AさんBさんが、あの店に行ってみよう、と思ったときに、ちゃんと存続していることです。
少なくとも、そう気持ちを切り替えることです。

ひょっとして、永遠に来てくれないかも知れませんが、
心のどこかでそう思い、もしその日が来ても、AさんBさんが安心して入ってこれる店つくりに勤める、
それが店主としてのスタンスです。そして、それが全てのお客さんに対するスタンスという事。





そして2つ目。

これまた当たり前のことですが、飲食店のオーナー場合、「まず店ありき、次にお客さん」、という順位を意識すること

どんなにお客さんのことを真摯に思っていても、肝心の店に魅力がなければ、お客さんは来てくれません。
「お客さんのため、お客さんのため」、と、うわ言のように念じている暇があったら、
まず、現状、自分がお客さんの立場だったら、この店にさらに何を期待するだろう?、と考えた方が、
よっぽど現実的だし、お客さんのためです。

そして根本的に、外食ってなんだろう?、何が求めて来られるのだろう?、
まあ、いろいろあると思うんだけど、その中でも、最も期待されるのは何だろう?と考えると、
僕が思ったのは、「ご家庭では再現不可能な雰囲気」、を提供する事でした。

もちろん、料理も同じくらい重要なのですが、
飲食店のプロとしてお金を頂く以上、空腹を満たせばOK、
お皿の上の世界だけに集中していればOK、では面白くありませんし、生き残れません。

なぜならば、来店は、圧倒的に2人以上が多く、
そこでは久しぶりに会って近況報告をしたり、何かを決定したりする、場、を求めてこられるケースが多いのです。
すべての飲食店がそうだとは断言できませんが、少なくともアドレナリンに関してはそうでした。

だから、店の雰囲気がすごく重要だと思いました。
ただ、店の雰囲気って何?となると答えは難しいです。
辞書を引くと、「その場や、そこにいる人たちが自然に作り出している気分や様子」、とあります。

テーブル、イス、灰皿、メニュー表、床材、壁材、窓、照明、雑誌、など・・・
と、数え切れないアイテムによって構成されている店内。
これらのモノたちに統一感を持たせるのは一苦労だし、何よりセンスが必要です。

けど、それを自分の手で1個づつ選んで、組み合わせて、やっていくしか方法はないし、センスがなければ磨くしかない。
それプラス、BGM、スタッフのキャラクターとその働きぶり、客層、などで雰囲気は決まる、と思っています。
そうやって、まず店の雰囲気を作っていくしかない。

つらつらと簡単に書くけど、実はめっちゃ難しい。 そして、とてもマニュアル化できるような内容ではない。

けど、めっちゃ面白い。

で、実際に、お客さんが来てくれるのはそのあと、もっとあと、ぜんぜんあと!、それでいい!
それが出来ていないうちから、お客さんが来ない来ない、と言うのは、あまりに他力本願すぎると思う。
「困った時の神頼み/お客様は神様です」、ではなく、ちゃんと目的があって来てくれているに過ぎないので、
その目的に見合った料理なり、雰囲気なり、をコンスタントに提供できなければ、店としてはペケポンである。

べつに神様はコーヒーを飲んだり、パスタを食べたりしない。
店は、誰に対して準備するのか?と言えば、喉が渇き、お腹が減り、できれば安くあげたい、
そして雰囲気が良ければ尚よろしい、寛ぎたい、雑誌も読みたい、駐車場もあった方がいい、
という、普通の人なら誰でも思うであろう、思考を対象としており、
仮に、そんな理想的な店があったとしても、所詮、星の数ほどある飲食店の中の選択肢の一つでしかない。
だから、それに対する準備、心構えは、極めて現実的だし、生々しいし、具体的で、ギャンブル性が伴う。

そして、この商売をやればやるほど、
それだけ入念に準備しても、自分で100%OKだと思っても、
絶対にお客さんが来てくれる保障なんて、どこにも無い。
だからこそ、来てくれたお客さんは本当に有難いし、大切にしなければならない、という気持ちが自然と湧いてくる。

と、以上、2点。

で、これが毎日の営業の中で、グルグル絶え間なく繰り返され、明日も、明後日も、ずっーと続くのである。
そして、それを淡々とこなしていくしかない、という事が分かった。

悩んで、疲れて、なんて飲食店経営は大変なんだろう、と思いつつも、
毎日毎日、考えた末、やっと辿り着いた思考は、
案外そのへんで売られているような本にも書かれてある内容だった。
月並な言い方だが、どんなスタートラインから始めようが、ある程度の成功を収めようとすると、
おのずと道は1つに絞られ、そこに辿り着いた人はみんな同じことを思うんだな、と身を持って感じた。

そして、非常にアバウトな表現だが、やはり飲食店である程度成功しようとすると、
性格的にマメじゃないと無理だ、と痛感した。

※念のためここで言うある程度の成功とは、あくまで僕の解釈だが、
最低5年以上の連続した営業実績があり、黒字経営であり、
将来に対し、10年先または20年先の未来予想図が描けており、
それに向けて現在何らかの、たとえ微々たることでも、アクションを起こしており、
周囲の意見や、苦言も、とりあえず聞き入れる事のできる精神状態にあり、
コンスタントに医者要らずな健康体をキープしていることをいう。

すでにその頃、オープンから5年が経過しており、
これを境に、自分の思考回路も大きく変わり、だんだん商売の面白さも増していった。

これが上手く作用したのかどうか分からないが、徐々に、売上げの好不調が少なくなり、
安定した経営ができるようになっていた。

























脱・名古屋計画


そしてこの頃、(’01年)、僕は、店の借金を完済し、ほっとしたのも束の間、
今度は、当時の店で最大の不満であった、「駐車場不足の解消」、について本気で考えるようになり、
また、それと並行して、自宅と店舗の「W家賃の解決策」、を考えるようになった。

駐車場不足については、案外、お客さんの方が理解があったようで、
無いより、あった方がいいに決まっているけど、名古屋市内じゃあなかなか難しいよね、という感じだった。

僕の立場からすると、「けど、このまま、あと30年くらい営業するのかぁ?」、と思うと気が重くなった。
たしかに今はこれで仕方ないかも知れないけど、この先ずーっとこれじゃあ嫌だな、
やっぱアドレナリンにとって、クルマは特別な存在だし、
いつの日か、駐車場なんかで悩まなくてもいい環境を整えたい、と思った。とにかく現状では大いに不満だった。

そして、
W家賃については、当時、自宅が6万円、店舗が13万円/合計19万円。
この時点で僕が60歳まで(残り28年)、この状態で店を続けたとすると、
19万円×12ヶ月×28年=6384万円、というW家賃を支払うことになる。
しかも、この計算は、28年間家賃が全く上がらない、と仮定していますので、実際にはこれ以上の額になるはず。
これに甘んじるしかない、これ以外に選択肢がない、という情況なら仕方ないけど、
決してそうは思えなかったので、やっぱり不満だった。

そして自然と、僕の頭の中には、「移転」、という文字が浮かんだ。

と同時に、ちょっとビックリした。
漠然と、”ここで10年くらいはやるだろう”、と思っていたので、「わずか5年で移転を計画する」、とは予想外でした。
しかし現実問題、これらの不満を本気で解決したいならば、移転しかない、と思うようになり、
カミさんも同じ考えでした。

じゃあ、どこへ移転したらいいのか?

僕は、また5年前と同じく、クルマに乗って、
自分のアンテナに引っかかりそうな場所を求めて、あちこち走り回りました。

ただ、今回は、お手軽なテナント物件ではなく、土地です。
条件としては、

店舗つき住居を建てる、という前提であること。
店舗は40席くらいで、住居部分と合わせると敷地100坪くらいは欲しい。
これはあくまでも僕の考え方ですが、”駐車場の収容台数は、客席数の1/2程度は確保すべし”、という観点から、
20台程度のクルマが楽に駐車できるスペース、を考えると200坪くらいは必要となり、
合計300坪(990平米)くらいの土地を探さなくてはいけない、という目安を立てました。正直、デカイです。

事実上、この時点で、名古屋市内で土地300坪の購入は無理、と判断せざるを得なかったので、
「脱・名古屋」は決定的となりました。

まあ、僕自身、これまでやってきた中で、
少々不満はあっても住みなれた名古屋にこだわり、出来る範囲内で夢を完結させる方向性で進むか?、
見知らぬ土地で、さらにリスクを背負って、その代わり、思う存分、理想のアドレナリンを仕上げていくか?、
という二者択一は、たびたび考えてきましたが、やはり、まだあと30年近く働ける、という意識が強かったので、
後者を選びました。これについて、不安とか、寂しいとか、未練だとか、そういったネガティブな感情はありませんでした。

当然、お客さんとの別れは、思いっきり後ろ髪を引かれますが、
この問題に関し、感情論を持ち込むと、絶対に馴れ親しんだ土地からは離れられない、と思い、
”あくまでも移転だ、いつかまた会える”と信じ、着々と準備を進めていきました。























候補地・岐阜県中津川市

候補地さがしは思いのほか難航しました。
20件ちかくの物件を見て回ったけど、全くピンときませんでした。
そして、不思議と、僕は、名古屋から西方向には足が向かず、なぜか、東へ東へと進んでいました。
理由は知りませんが、たぶん本能的にそうなったと思います。
次第にエリアを広げますが、少々田舎へ行ったところで土地の値段は急落しません。
工場地帯、大型ショッピングセンター、サウナ、田んぼ、ビニールハウス、幹線道路、高速道路・・・、
と、思いっきり郊外にもかかわらず、ロケーションは、あまり魅力的とは言えず、
なんだか割高感が否めない感じがしました。

なかなか難しい・・・。

しかし、流れは急展開!
すでに、移転を決意してから、1年が経過し、なんともいえない悶々とした日々を送っていた、ある日、
たまたまカミさんの実家に寄った際、夕食の席で、近況報告を兼ね、話の流れで全てを打ち明けると、
カミさんのお父さんが、酒に酔った勢いなのか、それとも冗談なのか、はたまた大真面目なのか、
なんとも判断のつかないテンションで、「そんならこっちへ来たらどーだ」、と爆弾発言。

戦後の混乱、昭和の高度成長期、バブル経済、と、激動の時代を、地元の大手企業に勤め、
長年にわたって要職に就き、定年退職後の今も、その温厚な人柄と、几帳面さ、義理人情の厚さで、
70歳を過ぎても多忙を極める人であった。

「土地そのものはタダでやる、その代わり、それ以降、名義変更などの費用・諸経費、
固定資産税などの維持費は自分たちでヤリクリする事。
で、万が一、店がダメになったら田んぼやって米作って、野菜でも作って食え、ニワトリでも飼えばいい、」、
と言ってグラスの酒をいっきに飲み干し、

「まあ、本当にそーなった困るけどな、わはははっ、ま、考えてみろ」、と言って退席されました。

僕としてみれば、ポッカ〜ン、である。
カミさんは完全にあきれた顔をし、横に座るお母さんと何やら小声で話をしている。
正直、中津川は想定外。
この時たしか、僕は、半分笑ったような顔で、お辞儀をしたあと、・・・記憶は無い。

その後、あらためて、その土地を見に行かせてもらった。(※下の画像がそのとき撮影したもの)

そこは以前、畑として利用されていたらしいが、ここ数十年は更地、というか雑草だらけの土地で、
面積は、なんと希望通りの300坪!
登記簿を拝借し、図面と実物を見比べるのだが、あまりに草ボーボーのため、
どこからどこまでが敷地なのかサッパリわからない。

ただ、ロケーションは最高!
北に御嶽山、東に恵那山、西に笠置山、が一望できる、文句なし。
南側はゆるやかな斜面になっており、栗の木などが生い茂る雑木林だった。

2001年5月10日/撮影 ちょうどユーノスの位置が駐車場入り口になる。バックに見えるのが恵那山。


平日の昼間だったが、前の道を、30分に1台くらいしかクルマが通らず、
あとは終始、鳥のさえずりが田園風景に響き渡った。とにかく空気がうまい。

また、この区域は、田舎にしては珍しく、とくに起伏の激しい山間部にしては非常に珍しく、
地元住民らが指揮をとって、下水道が完備されており、
組合に加入すれば、格安で下水管の接続が可能で、トイレも通常の水洗となる。
都会では、下水道完備なんて当たり前だが、
地方では、家が密集していないため必要に応じて、自腹で用意するケースが多い。
まだこの辺は、昔ながらのくみ取り式トイレ、簡易水洗トイレなどが多い中、飲食店にとっては非常にラッキーだった。

この時点で、すでに僕は、「ここしかない」、と思っていた。

「立地と集客の関係」、については、全く心配しなかった。
どのみち来店が99.99%がクルマだろうと思っていたので、アクセス云々よりも、
駐車場の広さがポイントだと確信していた。

また、アドレナリンのような店は、国道沿いにデカデカと看板を上げるようなキャラクターではない、と思っていたし、
気に入ってくれた少数のお客さんがクチ込んでくれて、時間をかけて広まってくれたらそれが理想、と思っていた。
よく僕の言動に対し、「その自信はどっからくるの?」、と聞かれるが、その答えが↑に描いた理想の部分にある。

あえて広告は打ちません、クチコミだけで集客してみせます。
よって時間がかかります。その間、お客さんが少ない時でも、何とか店を維持していくだけの知恵と勇気はあります、
・・・これに尽きると思う。
僕は、仕事に対して、こういうアプローチの方が俄然燃えるタイプなのでしょうがない。
それが「自信家」と映るなら、そう解釈して頂いて構わない。




第二章へもどる 第三章へつづく




第三章


平行線/衝突/和解


後日、また一席設けていただき、カミさんご両親に対して、正式に「アドレナリン中津川・移転」の意向を伝えるべく、
あらためてお願いに上がった。
「本当にそれでいいのか?」、「こんな田舎で名古屋の人が商売成功できるもんかね?」、ご心配頂いたが、
「商売、成功するか失敗するかは分かりませんが、失敗するわけにはいきません。」とお伝えし、
こちらの意志は固まっています、と頭を下げ、有り難く了承を得ることができた。

自分でも、こんな展開になろうとは思ってもみなかったが、これほど有難い事はない、と思った。

さらに話は進み、施工に関しては、カミさんのお父さんの実弟で、
建築土木、ならびに土地の売買に関する会社を経営しておられる人に頼んだらどうだろう、というお話を頂き、
それならこちらとしても心強いし、間違いないと思い、その場でお願いしますと頼んだ。

翌週、その叔父さん宅に、僕が描いた建物の外観/内装に関するスケッチを持って、
ご挨拶を兼ねて、訪問した。とんでもない豪邸だった。
また、噂には聞いていたが、やはり、その豪邸と同じくらい、とんでもなく迫力のある叔父さんだった。
そして、静まり返った巨大なリビングに案内され、軽く世間話をしたあと、本題に入ると、

「ダメだ!あんな場所はダメだ!客なんか来んぞ!あんな場所じゃあ」、と、ライオンが吠えるかの如く怒鳴った。
候補地は、叔父さん宅からクルマで2分という至近距離ということもあり、
俺はこの辺のことは何でも知っている、その俺がダメだと言うのだからダメに決まっている、との内容のだった。
本来の僕だったら、絶対に言い返すのだが、ここは思いっきしアウェー(敵地)だし、
なにより、カミさんのご両親の手前、不用意な発言で、取り返しのつかないことになるとマズイと判断し、
その日は、用意したスケッチを見せることなく退散した。

しかし、諦めきれない僕は、翌日、叔父さんに電話をし、恐縮ですがまた話を聞いてもらえませんか?、
と、お願いすると、「おお、こっちも言いたい事があるから、いっぺん来い」、との返答をもらった。
これで何らかの突破口を見出せるかな、と思い、伺ってみると、やっぱり、「ダメだ!」と言う。
なんじゃそれ、と思ったが、他にいい場所があるからそこを見に行こう、ということになり、行ってみると、
申し訳ないが2件とも、僕の心に刺さるようなロケーションではなかった。

つーか、2件とも、「立地と集客」に関して言えば、良好だと思うが、
前途したように、僕の理想は、300坪の敷地と、その自然を楽しむ事のできるロケーションが厳守だった。
それが欠けていた。
でなけりゃ、わざわざ名古屋を離れ、中津川へ来る意味が無い、と思っていた。
名古屋のお客さんが来てくれた時に、
「そっかあ、マスターが欲しかったのはコレかあ、だったら仕方ないよな、中津川で正解だね」、
と言ってもらえるようなモノを用意しておかないと全く意味が無かった。

あくまで、「客商売向きの土地」、という点では、叔父さんの奨めてくれた土地は至極真っ当だったかも知れない。
けど、僕は、そこから更に一歩進めて、
「もうそういう店は沢山ある、せっかくこれから新しい店を作るんなら、全く新しいアプローチで挑戦したい」、
という意向を伝えると、しばし沈黙の後、「わかった、じゃあお前さんの好きな場所でやるがいい」、と言い、
「来週、簡単な絵でいいから、イメージを描いて来い、俺も考えておくから」、と言い残し別れた。

これにより、候補地は今の場所に決まり、
明らかに叔父さんの態度は軟化した、かに思われたが、翌週行ってみると愕然とした。
僕のイメージしたスケッチとは大きく異なった図面が用意されていたのだ。
僕が用意した案は、ほぼ現在のレイアウトそのまま。
いっぽう、叔父さん案は、出入り口こそ僕と同じ西側だが
しかし、客席は、恵那山を見るために東側〜南側にかけて全面パノラマ状態だった。
北側(道路側)は、なんと住居部分だった。

叔父さんの言い分は、
「まず、お前、客商売だろ、だったら一番陽当たりのいい、眺めのいい場所に客席を用意するのが常識だろ、
恵那山を見てもらえ、そして住居部分なんか北側で充分」、というものだった。

それに対し、僕は、
「いや、絶対に、客席は北側の方がいいと思います。まず、景色として遠近感があるし、
長い、ゆるやかな坂道を走るクルマをぼんやり眺めるのもいいし、
天気が良ければ御嶽山が見えるという楽しみもある。
そして北側というのは直射日光が当らないぶん、室内の温度管理がしやすいんです。
僕の経験から、冬場の寒さは、暖房で補えますが、
夏の直射日光の暑さは、カーテンを閉めて、冷房を18℃にしてもダメです、暑いです、
仮に18℃になったとしても、今度は、お客さんの中から「寒い」と言いにくる方が必ずみえます。
これは店側として最も困るパターンです。
また、北側を住居にすると、洗濯物を干しても乾きが悪いし、道路から丸見えだし、
何より子供の成長にとって良くありません。
お客さんは1〜2時間で帰られますが、僕らはずっとそこで生活するのです。
そして残念ながら、建築予定地からだと恵那山は見えません。
建物内部から見ようとすると、隣の敷地の木を20本くらい伐採しないといけません。
この場合、許可が出るのでしょうか?」

もう、これだけ考え方が違うと、本気で戦わないと移転失敗に終わる、と思い、気持ちを戦闘モードに切替えた。
目上の人に対し、反撃するのは言葉を選ぶし、神経を使うが、
これを短期決戦に持ち込もうとすると、絶対に感情的になるし、どんな結果になろうとも両者が後味の悪い思いをすると思い、
長期戦を覚悟した。この頃の心境は、vol.20に記載。

とにかく、何度も何度も、当時の愛車だったアルピーヌで名古屋ー中津川間を往復し、
少しづつ、僕と叔父さんの”心の溝を埋めていく作業”を行いつつ、
”中津川アドレナリンに関する設計を煮詰めていく作業”を、何度もへこたれそうになりながらも、
一手、また一手と、詰めていった。

そして、ようやく僕の理想のカタチに近づいた頃、
いろいろ考えてみると、変更した方が良いと思われる箇所がたくさん出てきた。
逆に、全体の雰囲気が具体的になったからこそ、再検討することが出来るようになった、とも言える。
よって、「色々考えたんですが、ここの部分はこのように変更したいんですけど」、と話すと、
「前と言っとることが違うやないか!そーコロコロ替えられたんじゃいつまで経っても出来んぞ!
そんな考えじゃイカン!」、と怒鳴られた。

しかし、これまでの伏線もあったと思うのだが、不覚にも僕はこの発言に対しブチ切れてしまった。
「こっちだって真剣にやってるんですよ!別に気分次第でコロコロ変わってるんじゃないんですよ!
そんなつもりで毎回毎回名古屋から来てるんじゃないんですよ!
設計変更はまだ間に合うじゃないですか、今はそのための話し合いじゃないですか!」

正直、僕は、この時点で、もうこの話がご破算になっても仕方ないと思った。
それでもいいと思った。いや、その方がいいと思った。
いつ工事着工とも決まってなかったし、名古屋アドレナリンの閉店日も決めていなかったので、
ここで慌てて話を進める必要は無いし、じっくり考えるべきだ、と思っていたので、
先へ急ごうとする叔父さんの考えには納得できず、逆らった。

しかし今思うと、僕の方が子供だった。
よくよく考えてみれば、今回の件で、叔父さんの報酬は0円だった。それは初めから聞いていた。
叔父さんからしてみれば、「兄貴の娘夫婦が、頼って来てくれたんなら金なんから要らない、タダでやってやろう」、
と、設計、銀行融資の斡旋、土地建物の申請、施工会社への働きかけ、値段交渉、といった面倒な仕事を、
全て、無報酬で引き受けてくれたのだ。
だから、少しでも効率よく話を進め、本業に力を入れたい、と思われるのは当然だった。
僕もそのことは頭で理解していたつもりだが、話が進むにつれて、自分本位の考え方になってしまい、
たぶん叔父さんは、「こいつは何という図々しいやつだ!もう面倒見てやらんぞ!」、と思われたに違いない。

その後も、それでも、相変わらず細かい仕様変更を次から次へと要求する僕と、
一刻も早くこの話を終わらせたい、と考える叔父さんとのギャップにより何度も決裂し、
それでも、僕は何食わぬ顔で名古屋へ戻ってきて、店のシャッターをガラガラと上げ、
いつものように常連さんらとバカ話をし、2003年1月28日、カミさんは産休に入った。
つまり、僕一人だけの営業が始まった。
よって、メニューを縮小し、自家製ケーキはカミさんに習い、簡単なバウンドケーキを僕が作った。
ピザやパスタのオーダーが入って、調理中に、新しいお客さんが入店されると、身動きがとれずホントに困った。
つーか、こんなことを言ってはいけないかも知れないけど、たえず頭の中は、新店舗のことでいっぱいだったので、
さらに負担が増えたので正直、辛かった。

あー、「人生の踏ん張りどころ」、とは、まさにこの事だと思った。

そして、2003年2月21日 (金)PM5:20、カミさんは中津川にて、3308gの男の子を無事出産した。
「陽介」と命名した。
なんだか我が家にとって、激動の最中に誕生した生命、という感じだった。

やがて、紆余曲折あった設計の話は、なんとか細部に至るまで決定し、
最終的には、僕の意見を、叔父さんが全面的に呑んでくれる格好となった。
カミさんの親戚一同は、このことについて「奇跡」と表した。(笑)
あの頑固な叔父さんを、名古屋からやって来た息子ほどの若造が説得し、
自分の欲しいものを建てることに成功するとは奇跡だという。
でも僕は逆に、あれだけ頑固で有名だった叔父さんが、「今回に限り、折れてくれたから」、だと思っている。
「ダメだ!あんな場所はダメだ!客なんか来んぞ!あんな場所じゃあ」、と、ライオンが吠えるかの如く怒鳴った。
の、あの日から、なんと1年が経過していた。

逆境には強い、プレッシャー大好き、健康には自信がある、と思っていた自分だが、
この頃、原因不明の湿疹に見舞われ、いくつか病院に行ったが症状は治まらなかった。
幸い、首から下にしか出なかったので、お客さんには全く気付かれなかったが、常時、微熱があったので辛かった。
そして最後に行った病院で、ストレス性の蕁麻疹、と診断された。
なんとなく自分でも予想はしていたので、正直やっぱりか、と思った。
この1年の精神状態は普通じゃなかったので、ある意味、納得できた。
そして、処方して頂いた飲み薬は効果覿面で、あっという間に直った。ホッとした。

























工事着工、さらば名古屋

やっと施工に関する話になり、
叔父さんとしては、「この建物を作るのなら、俺の会社から独立したマルハ建設がよかろう」、ということになり、
恵那市のマルハ建設さんにお願いする事にした。
店舗の施工はやったことがありませんが・・・、と控えめな感じで話された林社長・兼/現場監督だったが、
こちらが提示した工事費2000万円でOKしてくれたことと、
僕としては、あまり店舗らしく仕上げてもらうとイメージとちょっと違う、と思っていたので丁度良かった。

2003年3月5日 整地が完了した

前項の、草ボーボーでユーノスを撮影したのが、2001年5月だったので、
約2年かけて、ようやくこの状態までこぎつけたことになる。
ホッとするやら、目頭が熱くなるやら、いろんな思いが交錯する。



2003年5月14日 基礎工事がスタート

右から、カミさんのお父さん、青いジャンパーのガス屋さん、その横が例の叔父さん。
この日も、いきなり何も無い状態の地面に、木の棒でザーッと線を引きはじめ、
「ここでいいか!」と大声で僕に怒鳴り、
え?、「何がですか?」、と答えると、
「バカやロー!店の位置に決まってんだろ!ここでいいかって聞いてんだよ!」と、また怒鳴り、
いいも、なにも、こっちは分かんねーよ、と思いつつ、「OKです!!」と怒鳴り返し、
「よーし、じゃこっからだ!」と叫ぶと、
作業員の兄ちゃんたちがダーっとクイを持ってきて、木のハンマーでガンガン打ちつけて・・・



2003年5月22日、あっという間に基礎工事が完了。
これを見てふと、「あーこれでもう後戻りは出来ないんだな」、と思った。



2003年5月31日、
全てに「水野様 邸」と刻印された柱が到着し、あっという間に骨組みができた。



同日。作業は早い。そして丁寧だ。



2003年6月4日。
僕は、基本的に周に1度しか来れないので、見るたびに変化がありワクワクした。



2003年6月11日、
この人が前出の、ルノー5ターボIIに200万円のシーケンシャルミッションを載せた、山本氏。
普段は空調設備のメンテナンス会社を経営されているのだが、
電気にやたら詳しく、僕は、エアコンを含めた電気器具全般の取り付けを依頼しており、
この日は現場確認の為、足クルマ/ルノー21ターボで中津川入り。



2003年6月25日 店舗入り口付近
ベック550スパイダーが収まる為、床下の補強は入念に行われた。


そして、2003年7月29日 (火)、名古屋アドレナリンは、この日をもって閉店した。
この半年間、僕一人で営業した。本当に大変だった。
たまに僕の母親が、友達らと一緒にコーヒーを飲みに来ることがあったが、
そんな時に限って大ブレイクしており、絶体絶命ピンチであり、意を決して、立ってる者は親でも使え、じゃないけど、
そのテーブルまで行き、「申し訳ないけど、ちょっと手伝って」、と頭を下げた。
実は母親は、過去に、長年のウェイトレスの経験があり、雇われとはいえ責任者だったこともあり、
キャリアは僕よりも長かった。
だから、なんとなく店内の様子から察知し、「私が手伝わねば」、と思っていたらしく、
出来た料理を運んでくれ、お客さんに対し、「お待たせ致しました」、と普通に接客し、
レジをやり、お客さんが帰られた後の食器まで引いてきてくれた。

さぞかし、接客されたお客さんの方がビックリしたと思うが、僕はこれで良かったと思っているし、母には感謝している。

最終日は、超満員だった。
もっと、しんみり終わるのかな、と思っていたが、常連さん、友人らが続々と押し寄せ、滅茶苦茶になった。
何度も繰り返すが、このときも僕一人だ。対応できるわけがない。
よって、コーラや、ビールなんかは勝手に冷蔵庫から持ち出され、自動的にセルフサービスと化した。
もちろん誰も伝票なんか付けてないし、あとから来たお客さんは、それがルールだ、みたいな事を言っているし、
つーか、そんな店は無いし、そんなのは店じゃないし。
僕は厨房で、次々と入るオーダーをさばくのに必死だったが、背後から、「水野」、と声がするので振り返ると、
高校時代の恩師である岡島先生が立っており、「良かったな、水野」、と有り難いお言葉を頂きつつも、
今忙しいんだっつーの、と思いつつ、「俺はもう帰る、んじゃな」、と言い3千円を置いていかれた。
なんだかよく分からないけど、もう気が狂いそうだった。

一段落して、僕は各テーブルを回り、お客さんらに「これまで有難うございました」と感謝の気持ちを伝えた。
中には、本当に落胆している人もいたのでビックリした。
逆に、それだけアドレナリンのことを好きでいてくれたかと思うと、胸が熱くなった。
そして、その席で、多くの人に、「ここはここで残すべき」、と、本気とも、冗談とも取れる言葉を頂いた。
僕に対する、最大の褒め言葉、だと解釈した。

最後は、高校時代の同級生(野村祥子/桑原聖美/山田ユウジ)ら3人が残り、深夜3時ごろまでバカ話をし、
3人を見送って、名古屋アドレナリンは幕を閉じた。これで6年9ヶ月の営業が全て終わった。
感想としては、70点くらいの出来だったと思う。
精神的な弱さもあったし、ミスもあったし、天狗になりそうな頃もあった。
それらを思い出すと、とても100点とは言えず、30点くらいは減点だろうと思った。

翌日は、朝から撤去を始めた。
前夜、とくに大酒を飲んでハメを外すという事はなく、缶ビールを1本程度飲んでコロっと寝た。
体は疲れきっていたが、気持ちはすでに中津川に向いていたので、頭はしゃきっとしていた。

午前中、早々にアート引越しセンターが、軽トラックいっぱいの梱包用段ボールを納入し、
膨大な量の、クルマ雑誌、レコード、CD、ミニカー、食器、などを一人で詰める作業を開始した。
朝から晩まで、4日間ぶっ通しでやった。引越しは2週間後に迫っていた。

同時進行で、先のルノー5ターボII/山本氏が、全ての照明器具、エアコン、の取り外し作業をやってくれた。
エアコンに関しては、分解・洗浄というオーダーを依頼しており、新品のような状態で戻ってきた。

テーブル/椅子/梱包された段ボールは、店の隅にテトリスのように積み上げた。
がらーんとした空間ができ、もうそこには、かつてのアドレナリンの面影は無かった。
むしろ、ここに初めて来た頃のスケルトンの状態に近かった。

しかし感傷に浸っている暇は無く、ここからが最後の大一番、”看板作り”、がはじまった。

看板屋から900mm×1800mmのトタンを10枚買ってきて、
近所にお住まいの、
当時はケータハム・スーパーセブンにお乗りで、
現在は、トライアンフ・スピットファイヤーをご自身でバラバラに分解してフルレストア中で、
足クルマは、初代レンジローバー/エアサス仕様なんだけど、壊れまくるので、
イギリス本社から、コイルサスペンション一式を船便で半年も掛かって輸入し、
これまたご自身の手で換装し、とはいえ、ちょっとでも時間があると、ビールばっかし飲んでいる、
そんなイカす電気工事技師/山田氏に、
看板のフレームを、鉄製のアングルで3枚分作っていただき、トタン板はリベット打ちした。

それを、がらーんとした店内に持ち込み、
中津川アドレナリンのために特別注文して作った、オレンジのウレタン塗料を使って、
900mm×1800mmのサイズが2枚(駐車場入り口と、下の十字路の所)と、
1800mm×1800mmが1枚、これは店舗正面のメイン看板、を描いた。

とにかく、この夏は暑かった。
すでにエアコンは撤去されており、入り口の扉を全開にし、
僕は汗だくだくで、ペットボトルのウーロン茶2リットルをがぶ飲みしながら、
オーディオも撤去したので、しょぼいCDラジカセで、ビル・エバンスを大音量で聴きながら描いていると、
お客さんが、「今日はやってますか?」と入店され、
僕は、右手に筆を持ったまま、首からタオルをぶら下げたまま、短パンのまま、サンダルのまま、
「これで営業してたらすっごいヘンですよね!」、と言おうと思ったが、
「あーすいません、7月末で閉店しまして、8月から岐阜県の中津川で・・・」、と大人の対応をしつつ、
刷り上ったばかりの移転案内のポストカードを丁重にお渡しすると、
その女の子2人は、アウディA4に乗ってにこにこしながら帰られました。

幾度となく、何も知らないで来店される方の対応に追われ、そのたび筆を止め、
予定よりも大幅に完成が遅れたが、細かい仕上げは中津川へ行ってからでもOKと判断した。
で、これが本当の最後の大仕事、「ベック550スパイダー/中津川入れ」、を引越しの前日におこなった。

たぶん半年振りくらいにエンジンを掛けたんだと思う、とにかくグズった。
汗だくでプラグを交換し、なんとかアイドリングが安定したところで、大急いで名古屋インターに飛び乗った。
パアアアアアアーァン!と、お盆の白昼、マフラーからアフターファイヤーをドバドバ吐きながら、
外気温38度の中央道をひたすら走った。
ハタから見れば、”こんな暑い日にスポーツカーに乗ったバカヤロー”、と思われたと思うが、
僕の心境は、”なんとかゴールまで辿り着いてくれ!、渋滞は勘弁してくれ!”、というものだった。
やっぱし、こういうクルマは心にゆとりがないと楽しめなかった。
そして、土岐インターを通過したあたりから、ミスファイヤーが始まり、ヤバイなあ、と思っていると、
バックミラーに、ホンダS2000が大写しになり、あきらかに”遊んで欲しい”、と誘ってきた。
「バカ言え、今こっちは引越し中なんだっつーの!」と思った瞬間、僕は4速から3速にシフトダウンし、
一呼吸置いたあと、クォオオアアアアアアーーーン!!、とフルスロットルをお見舞いしてやった。

すると、S2000は本気になり、VTECエンジン(当時はまだ2リッター)が吠えた。やっぱし速かった。
前言撤回、
こういうクルマは、心にゆとりがなくても、遊び相手に恵まれているので、結局は楽しい、であった。

おかげで無事、ベック550スパイダーは中津川入りした。
そして僕は、JR中央線に乗って、また名古屋へ戻った。



自宅リビングの電気配線工事を行う、阿木電業代表/丸山氏。
こういう言い方をしては失礼かも知れないが、
早い/安い/上手い/話が面白い、と四拍子揃っためずらしい人。
僕は個人的にこの人の大ファン。



2003年8月上旬 カウンターの骨組みを作成中
マルハ建設には欠かせない安田氏。
僕は、この人の素朴さに何度心を打たれたことか。



2003年8月上旬
内装/電気/ガス/水道の工事は、ほぼ完了し、
外観の一部を残すだけとなった。


2003年8月13日/朝8:00、アート引越しセンターが、自宅、店舗、それぞれに到着し、荷物を積み込み、
自宅アパートの鍵は、組長の土屋さんの郵便ポストへ入れて完了、
店舗は、管理会社の小高氏がわざわざ見送りに来てくれ、というか仕事上、退去の確認をし、鍵を返却し、
「中津川の店は必ず行くから!」、とねぎらいの言葉を頂いた。
この時すでに、小高氏はBMWのZ3ロードスター3.0iを購入済みで、妙にやる気満々だった。

移転だろうが、なんだろうが、やはり、これは、”お別れ”以外のなにものでもなかった。

さらば、名古屋アドレナリン・・・
ありがとう、みんな・・・

僕は、ユーノスロードスターに乗り込み、手を振って別れた。



第三章へもどる 第四章へつづく



第四章


中津川アドレナリン・オープン

2003年8月13日、無事、引越しは完了した。
中津川市役所にも行き、転入届を提出し、中津川市民となった。ふー、やれやれ、と安心した。

あとは、
ひたすら、段ボールを開け、荷物を所定の位置に置き、空いた段ボールをつぶす、という作業に追われ、
ひたすら、家電製品を各部屋の所定の位置に置き、コンセントを差込み、時刻を合わせ、という作業に追われ、
ひたすら、新しく届いた器具や食器を開封し、ラベルを剥がし、所定の位置に置く、という作業に追われ、
ひたすら、まだオープンしてないのに、「何屋さん?」、「あれっ、コーヒー屋さんなの?」、「いつから?」、
と入代わり立ち代わり人がやってきて、その対応に追われる、という作業に追われた。

カミさんは産後、半年ということで、ようやくハイハイをするようになった陽介と格闘中で、
あまり無理をさせてはいけない、と思い、開店準備の90%以上は僕一人でやった。
自分で言うのもなんだが、オープン2日前には準備万端で、さすが、と思った、ノーミス、完璧だった。

2003年8月31日/大安/日曜日 AM10:00 カフェ・アドレナリン.中津川移転 オープン!

いきなり大ブレイクだった。
駐車場は常時8割がた埋まっており、その半分は名古屋ナンバーだった。
陽介はカミさんの実家に預け、2人でテンテコ舞いだった。
この時のメニューは、ソフトドリンク、パンメニュー、ケーキ、ピザ、だけだったが、
需要に対し、供給が追いつかなかった。

■お客さんの感想■名古屋の人編、
高速で1時間だし、中津川インター降りてからすぐだったから思ったより近く感じた、とか、
駐車場が広い!、店がでかい!とか、
眺めがいい!、空気がうまい!とか、
子育てにはいい環境だよね、とか、
雰囲気はそのままで安心した、とか、
あ、この入り口のドアって、あの頃のままじゃん、なつかしー!、とか、
あ、コーヒーの値段が100円安くなってる!、とか、
あれ?ビール無くなったの?とか、
あれ?チャーハン無くなったの?とか、
俺たちの集まれる店が(名古屋では)もう無くなって困っている、など。


■お客さんの感想■中津川周辺の人編
モーニングはやってるの?、えっ?やってないの!、とか、
コーヒーに、ピーナッツとか付かないの?、とか、
夜はスナック?とか、
店の名前、なんて読むの?、えっ?、アロレナミン?
ちょっとわからんで紙に書いて、(書いて渡す)、えっ?、ア・ド・レ・・なーんて読むの?(読めんのかい!)、とか、
お兄ちゃん(どうやら僕のこと)、バタートーストちょうだい!、(お出しする)、
せめてジャムくらい塗ってよお〜、(なんじゃそりゃ!)、とか、
ここってオープンの時のチラシって入れた?、えっ?、入れてないの?、入れなきゃダメよ!、とか、
クリームソーダを2つ、えっ?、無いの!?、ふつう喫茶店ならクリームソーダくらいなきゃダメよ!、・・・など。


つまり、
僕のこと・アドレナリンのことを、よく熟知してみえるお客さんが、名古屋から多く来店され、
僕のことを、全く知らない、喫茶店と言えばコーヒー300円くらいでピーナッツが付いて当たり前、
だから、この店もそうしなければいけない、という概念の人が、中津川周辺より、多く来店された
、という事だった。

そして、
これからは、その”コーヒー300円ピーナッツ付き”、というイメージを強く抱く、多くのお客さんを対象としなければいけない、
という事実を突きつけられた。

ある意味、そんな当たり前の、幕開けだった。




























試される適応能力

オープン後、お客さんの反応をみていると、やはり、
「モーニングサービス」と、「お値打ちなランチメニュー」、の両方を用意していない喫茶店なんて、ありえない、
という感じだった。
平日/客層の約90%が、20代後半〜60歳代までの主婦層だったので、当たり前の要求だった。

しかし事実上、カミさんは戦力外であり、とは言え、アルバイトに頼るのまだ早い、と考えていたので、
しばらくは、あまり手間のかからないメニュー構成で様子をみよう、と決めていた。
それでも開店バブルということで、それほど売上げには困らなかった。

例えば、昼に、主婦3人くらいで来店し、「えっ?ここってランチ無いの?」、と驚きつつも、
コーヒー(400円)3つと、ピザのLサイズ(1500円)を1枚と、食後にケーキ(200円)を3つ、という注文をし、
2時間くらいお喋りをし、合計金額3300円で、一人当たり1100円(税込み)だったので、ま、結果オーライだった。

とはいえ、それがいつまでも続くとは思えず、
オープン後、わずか1週間で、am9:00〜pm9:00という、どこの店でもやっているような営業時間に変更し、
am10:30までモーニングサービスとし、トーストとヨーグルトを0円で付けた。
この頃の詳細は、vol.25に記載。
このモーニングについて、お客さんの反応は、
もともとあって当たり前、という認識だったので、ある意味ノーリアクションだった。
しいて言えば、出された内容によっては、好感度アップ、という感じだったので、当店の場合、
「あ、このパン美味しい」、と感じてもらえただけでOKだった。悲しいかな、これがカフェという仕事の実情だった。

並行して、お食事のセットメニューもスタートした。
お客さんの様子を見ていると、こちらの作戦どおり、1時間以上の長期滞在の方が多く、
それならば、サラダ、ピザ、パスタ、デザート、食後のドリンクまで込みで、お一人様1500円なら、問題なしと判断した。
少なくとも、自分がお客なら納得すると思った。

しかし、この値段設定にすることによって、毎日のように食べに来る、といった客層は見込めず、
リピートの間隔が長くなる。そのぶん、客数を増やさなければ成立しなかった。
でも人口密度の低い田舎では、ド派手な広告でも打たないかぎり短期間での集客は不可能だった。
それは嫌だった。
そのかわり、ドリンクに関しては、高かろうが安かろうが、なんでもOKにして、
パスタの大盛り(約20グラム増)も0円で積極的に引き受けた。
主婦層だけでなく、男性客や、ファミリー層も狙い、客層を広げ、売上げ最低ラインを確保した。
こういったシステムはこの辺ではあまり前例が無かったのか、あっという間にクチコミで広がった。

その後、あちこちの飲食店で似たようなシステムが導入されていったのは単なる偶然か?

また、うれしい誤算として、
60歳以上の客層にもビンゴだったようだ。

しかも、”ピザ狙い”、だった。(笑)
なぜピザなのか?、疑問に思ったが、いろいろ話を聞いてみると、
60歳以上の人が、直接的、受動的、問わず、宅配ピザを食べるケースが意外と多く、
ピザに対して、なんら抵抗も無く、日常的なものだった。
これは、在宅率が高いのと比例しているのかも知れない。

しかし、あのオイリーで、人工的な味付けには、いささか不満あったようで、
当店のような、新鮮な野菜をメインとした、胃にもたれないピザは、お年寄りにとってグーとのことだった。

また、ピザというのは、1枚を1人で食べてもいいし、2人、3人で食べてもいいし、
食べ残したとしてもお持ち帰りOKだし、食事としても、間食としてもOKという、
なんとも守備範囲の広いアイテムだった。
よって、テイクアウトを注文する電話が多く掛かるようになった。
これは名古屋時代にもあったが、その比ではなかった。
お盆休みで親戚が集まったから焼いておいて、とか、
今、増築中で、大工さんたちのお茶の時間に欲しいから、とか、
娘が出産で帰ってきてて、食べたいって言うから、など・・・


10年前、僕が独学で、気まぐれに焼いたピザは、
知らぬ間に、さまざまなニーズに対応した看板商品になっていた。

やがて、”アドレナリン”、と発音できなかった人たちは、
”あのピザの店”、と言うようになっていた。ま、それで良かった。



おかげさまで、2003年〜04年にかけての来客数は予想以上だった。
そして、とにかく多くの方に、いろんなリクエストを頂き、アドバイスを頂戴した。
そして、その声を、僕なりに解釈し、出した答えが上記のアクションだった。

正直言って、常に、妥協との戦いだったが、
冷静に考えて、勝算の低いポリシーを貫くことほど危険なことはないし、愚かなことはない、と思った。
なにかと、”個性の強い店”、というイメージが先行するアドレナリンだが、
肝心の営業面において破綻してしまっては、個性もくそもないし、何より、お客さんは喜んでくれない。
だから、現状を見極め、その都度、一番良いと思える選択をしてきた。

たしかに、僕はこれまで、”勝算の低い(と思われる)ポリシー”、を、頑なに貫いてきた部分もあったし、
また、そんな僕の姿勢に共感をしてくれ、エールを送ってくださる同胞も多かった。
また、それがアドレナリンの魅力でもあった。
でも、そういったニッチでコアな営業スタンスは、時と場所を選ぶ、ということを学んだ。

時とは、店主である僕が20歳代という若さだったから出来たことだったし、
場所とは、日本でも屈指の”クルマ趣味大国”名古屋、という風土に支えられた、ということである。

ぶちゃけ、2003年〜04年は、この破綻の危険性が最も高かった時期だと思うので、
なんとか舵取りを誤らず、いい波に乗れたことに安堵しているし、お客さんに感謝している。



























そして10周年

2004年から、アドレナリン史上初のスタッフを採用し、
平日のランチタイムや、週末のピーク時の接客などをやってもらうようになった。
僕の基本方針としては、”スタッフに頼らず、自分の手の回る範囲内で運営すべし”、なのだが、
そうも言っていられなくなった。
やはり、どう考えても、
「人手不足が原因で店のサービスが低下、長い待ち時間」、と、お客さんに思われるのは好ましくない。

スタッフ採用に関しては、あまりにネタが豊富過ぎて、
まだ頭の中の整理が出来ていないので、またの機会にじっくり書かせてもらいます。

しかし、一軒家を維持していくのは大変ですわ。
敷地内と、その周辺を、ある程度きれいに保とうとすると、しょっちゅう気を配っていないといけないし、
草を刈ったり、木を切り倒したりしなくちゃいけないのは日常茶飯事で、
それには、それなりのマシーンが必要となり、その都度、買わなくちゃいけないし、
しかも、使ったマシーンはメンテナンスしなくちゃいけないし、使いっ放しだと痛みが早いし、
田舎生活は、もっとのんびりエンジョイできるかと思ったら、大間違いだった。

まあ、やってみて思ったけど、僕自身、案外そういうことが嫌いじゃないみたいだし、
肉体的にはきついけど、(とくに夏は)、むしろ、楽しんで、興味を持って、やれているので良かったと思う。
なんだろね、きれいになった時の達成感、とでも言ったらいいのかな。
ある意味、クルマの洗車と似ているかもしれないけど、
やってることのスケールが違うからさ、それに伴う充実感もケタ違いに大きいね。

自分のクルマをぴっかぴかにしても僕しか嬉しくないと思うけど、
敷地内外の草を刈ったり、道路に飛び出た砂利をほうきで掃いたりして、バーンときれいになった景色を見ると、
僕だけじゃなくて、そこを歩いたり、通ったりする人も、なんとなく嬉しそうと言うか、
気持ち良さそうな気がするんだよね。

実際、僕もクルマで走っていて、道端の草をウィイイイン!って刈ってる人を見ると、
「お、やってるな!」、と思うし、よく分からないけど、心が和むんだよね。
別にやってる本人は、奉仕活動の一環とか、環境美化とか、そんな意識はさらさら無い思うけど、
単に、草がぼーぼー伸びて見苦しいから仕方なくやってるだけかも知れないけど、
ハタから見てると、気持ちのいい風景なんだよね。



10周年に関しては、
”カフェ・アドレナリン.を10年も営業できた!”、という喜びと、
”カフェ・アドレナリン.は、まだ10年しか経っていない”、という、まだまだ感とが交じり合った複雑な気分です。

考えてみれば、’96年に名古屋でスタートし、移転するまでの間、
僕は、かなり特殊な環境にいて、それは、商売としてすごくリスクが高く、難しい営業を続けてきたんだな、
と、中津川に来て思い知りました。
その時は、それが初めてだったので、「これが当たり前なんや」、と思っていましたが、実は、かなり特殊でした。
それが証拠に、中津川をオープンした際、名古屋で培ったスキルが全く通用しない、という場面に何度も出くわしました。

薄々は感じていましたが、中津川のお客さんが求めるのはド真ん中の直球ストレート、
一般的で、常識的なニーズだったのに対し、

名古屋時代の僕は、内角低めにえぐり込んでくるシュート、一歩間違えるとデッドボールになるくらい、
危険で、刺激的な投球(営業)をしていたと思います。
結果的にお客さんからは喜んでもらえたので良かったですが、若かったからこそ出来たリスキーな営業でした。

おかげで、カフェ業に対して、たった10年でいろんな球種を覚えることができました。

そして、今は、両方ミックスして、良いところだけをピックアップして、営業しています。

中津川にいても、クルマ好きというのは案外多いと感じますし、
むしろ、ゆったりとカーライフを楽しむなら、名古屋よりも適しているかも知れません。
ただ、残念ながら、こっちに来てからの僕は、クルマを趣味として楽しむといった時間的余裕がないので、
なんとも、歯がゆい思いをしています。

もう少し、子供が大きくなって、勝手に友達と遊びに行くようになれば、また、
ベック550スパイダーを引っ張りだして、車検を取って、パアアアアアアーン!と、やろうと企んでいます。
そして、できれば、夜アドを再開して、クルマ好きのお客さんらと、あーだ・こーだ言う場を作りたいと考えています。

今後ともよろしく!









■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■







あとがき

こうして、10年を振り返ってみました。

事実の羅列だけでは、読んでくれる人の興味が湧かないし、面白くないので、
できるだけ、その時々のシーンを具体的に描写し、僕の感情も正直に添えました。

そうすることによって、もし、カフェ開業を志している人が、これを読んだ時、
なにかしら近い将来、参考になる部分があるかもしれないし、
へー、そーなんだ、で済ましてもらってもOKだし、
今さらカフェ開業なんて絶対にムリなんだけど、職業としては興味があって、
奇麗事だけじゃなくて、世に氾濫しているカフェ本とは違ったアプローチの現場の生の声を知りたい、
といった人が、必ずいる!と思い、ズラズラと書いてみました。

2003年に出版された、村上龍・著書「13歳のハローワーク」、という本をご存知の方も多いと思います。
その本の中で、
いい大学に行って、いい会社や官庁に入ればそれで安心、という時代が終わろうとしています。
それでも、多くの学校の先生や、親は、「勉強をしていい学校に行き、いい会社に入りなさい」、と言うと思います。
勉強をしていい学校に行き、いい会社に入っても安心できないのに、
どうして多くの教師や親がそういうことを言うのでしょうか。
それは、多くの教師や親が、どう生きればいいのかを知らないからです。
勉強していい学校に行き、いい会社に入る、という生き方がすべてだったので、その他の生き方がわからないのです。


という、くだりがあります。
「ああ、なるほど、僕もそう思った」、と思いました。
この本はベストセラーになり、NHKでも取り上げられ、
これからは、子供の頃から「働く」、ということを意識した教育なり、社会基盤を作り、
今後、ニートやフリーターを減らしましょう、といった趣旨の番組も作られました。

たしかに、今、学校で教えている事は、実社会では役に立たないことが多すぎるし、
それは、ずいぶん昔から指摘されていることだと思うのですが、一向に改善されません。
だから、この本がヒットしたと思うのです。「よくぞ言ってくれた!」、みたいな感覚で。
だから、国営放送であるNHKが飛びついたと思います。

でも、この本の中で、著者は、こんな事を言っています。
この本は、好奇心を対象別に分けて、その対象の先にあると思われる仕事・職業を紹介しようという目的で作りました。
仕事は辛いものだ、みなさんはそう思っていませんか。それは間違いです。
たとえば私の仕事、それは小説を書くことで、楽ではありませんが、辛いから止めようと思ったことはありません。
止めようと思わないのは、そこに充実感があるからです。
小説を書くこと以上に充実感があることは、私の人生にはありません。
だから、私は小説を書き続けているのです。じゃあ、誰もが小説を書けばいいかというと、それも違います。
私は1日に12時間原稿を書いて、それを何ヶ月も、何年も続けても平気です。
それは、小説を書くことが私にピッタリの仕事だからです。
楽ではないが、止めようとは思わないし、それを奪われるのは困るというのが、その人に向いた仕事だと思います。
そして、その人に向いた仕事というのは、誰にでもあるのです。
できるだけ多くの子供たちに、自分に向いた仕事、自分にピッタリの仕事を見つけて欲しいと考え、この本を作りました。


ま、この本は、あくまで子供を対象としているので、”仕事は辛いものではない”、とアピールすることを前提としているし、
できるだけ多くの子供たちに就労を促す、という役目も買ってでています。
僕も、これについては素晴らしい事だと思うし、理想的です。

しかし、実際には、働く事は辛いことの連続です。
辛いことの方が多い、とは言いませんが、好きではじめた仕事でも、辛いことは十分に多いです。
でも、この本によれば、「それは、まだ、あなたが本当に適した仕事に出会っていないからです」、
といったニュアンスが記されています。
僕はそれは、ちょっと違う気がします。

著者・村上龍氏は、23歳まで親に仕送りをしてもらい、
アルバイト経験なしで、過去に一度も就職したことがなく、
在学中に書いた小説がいきなり大ヒットし、途中いろいろあったと思うのですが、
現在54歳で活躍中という、世間的にはかなり恵まれた人です。

しかし、一度も会社勤めをしたことが無い人、雇われた事のない人が、
「働きましょう」、と言っても、なんかシックリこない部分があります。
なんと言っても、この世の大半は、”雇われている人”、です。
おそらく、この本を書くにあたっては、相当な取材をされたと思います。
そしてそこでは、雇われている人の本音が必ずあったと思うのです。

”やりがいもあるし充実しているけど、途中何度も辞めようと思ったことがあるし、
雇われているという弱者的な立場上、どうやってもクリアできない問題・不満はある、
けど、どこかで妥協しなきゃいけない部分もがあって、
それは歳をとるにつれて、徐々になあなあになっていったり、諦めたりするんだよ、
第一に、生活していかなきゃいけないから、好きな仕事とか、嫌いな仕事とか、言ってられないんだよ”、

といった、雇われている人なら誰でも、「そうそう!それそれ!」、と、
共感できる本音の部分も添えて欲しかった気がします。
子供たちが読んで、すぐに理解できるか、どうかは別にして、そこが必要だったと思います。
でも、やっぱし、そういう感覚は実際に”雇われる側”を経験しないと分からないかも知れません。

だから、僕は今回のテーマである、「回想」、を書くにあたって、
普段の営業の中で、僕があまり口にすることができない、カフェ業の辛さ、も、できるだけ添える事にしました。
といっても、冒頭にも書きましたが、書ける範囲内で書いた、という程度の事なので、
読む人によっては、「なんだよこれくらい大して辛くねーじゃねーか」、と思われるかも知れませんが・・・。

そして、最後に、あえて、
今の僕が子供たちに対して、働く事の大切さを伝えるとしたら、
こんな風に言うと思います。


”いくら好きで始めた仕事でも、必ず辛い事も、もれなくセットで付いてきます。
とくに、男性の多くは、人生の約7割程度を働く事に費やします。マジでキツイっす。
そして、女性の多くは、その男性と結婚し、将来を共にします。これはこれでマジ相当キツイっす。
でも、生きる事って、そういう部分があるからこそ、人間は考えるんだと思うよ。
人間、何十年もやってきて、辛いと感じることなく、世の中スイスイ渡っていけることなんて絶対にないよ。
つーか、逆のパターンの方が絶対多いと思うし。
でもさ、大人になったら、いちいち辛い事で凹んでられないんだよ。
すぐに気持ちを切替えてさ、前向いて、与えられた仕事をサクサクこなしていかないと給料もらえないんだよ。
じゃないと、マクドナルドにも行けないし、プレステ3だって買えないんだよ。
そのときに、心の中で物凄いストレスに襲われるんだよ。
頭の毛抜けるし、胃はキリキリするしさ、つらいよ。
やりたくないけど、やらなきゃいけない、みたいな。
そ、勉強と同じ。
だからこそ、自分が好きで、ある程度得意な仕事を若いうちに見つけておこうぜ!って話なんだよ。
好きな科目だったら、嫌いな科目をやるより楽しいし、少しくらい自由が奪われたって気にならないだろ。
勉強はさ、嫌いな科目もやらないといけないけど、仕事はさ、何を選んでもOK牧場なんだよ。
な、コレ、スゴクナイ?なんかタノシクナイ?
それもさ、若いうちから選んでおくと、そのぶん心の準備ができるし、
欲しい知識を集める時間のゆとりもある。
さらに、今なら特典サービス!
若いうちになりたいと思った職業が、だんだん自分には向いていないな、と思っても心配なし!、
残り時間があるから、まだいくらでもやり直しができます!
通販のお試し期間、2週間以内なら返品可能!みたいなもんだよ。
そーだなー、ひとくくりには出来ないけど、だいたいどの職業も30歳くらいまでなら返品可能かな?
逆に、30歳くらいまで遊んじゃった人は、ちょっとダークサイドだね。
なぜかっていうと、人間は、25歳から脳と体の老化が始まり、100歳までには大抵死んじゃうんだ。
これは宇多田ヒカルも、ミハエルシューマッハも同じ条件。
で、実際に働けるのは10代後半〜60歳くらいまでなんだよ。
だから、思いっきり老化が始まった30歳から何かを探しても、なかなか都合のいい仕事は見つからないんだよね。
そして、労働力としての30歳未経験、というのは、雇う側からするとちょっとキツイんだよ。
やっは、働くことってさ、頭と、体を使うからさ、
ある程度、大人として最低限知っていてもらわなくちゃいけないこと、これを常識って言うんだけど、
こっから叩き込まなきゃいけない情況だとさ、ぶっちゃけ、こっちが給料欲しいくらいなんだよね。
OSの入ってないパソコンなんか、なーんも役に立たないだろ、それと一緒。
最近こーゆーのマジ多いわけ。
でも、人間として考えると、あと50年くらいは生きるはずなんだよ。日本人の平均寿命は80歳だからね。
な、こうなると、ちょっとヤバイと思うだろ。
たしかに60歳以上でも働いている人もいるし、働く場所もあるよ、
けどさ、それは難易度の低い、ついでに賃金も低い、という仕事がほとんどなんだよ。
ぶっちゃけ、そういう人たちは、国からもらえる年金と合わせて、なんとかOKな生活、みたいな感じなんだよ。
だからまだ、”残り時間”と言う可能性のある若い子たちがいきなし目指す道じゃないんだよ。

・・・といった視点から伝えてみても面白いと思う。
それと並行して、働くことと、福祉についての関連性も添えたいところだね。
”世の中には、様々な事情で、働きたくても働けない人もいます”、といった内容の。
ま、いっぺんに、あれも大事、これも大事だと頭がパンクするから徐々に、でいいと思うけど。









ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは!



2006年11月14日 (火)/雨 カフェ・アドレナリン./水野雄一














なんかこーやって見てると、子供っていいなーって思うね。(笑)


END


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